淡谷のり子と笠置シヅ子の関係とは?ブルースとブギの女王の仲を徹底解説!

淡谷のり子さんは笠木シヅ子さんは

同じ服部良一さんの歌を歌う「先輩後輩」とも言える関係でした。

「ブルースの女王」淡谷のり子

「ブギの女王」笠木シヅ子

服部良一が世に送り出した2人の女王の関係についてまとめてみました。

この記事でわかること
  • 淡谷のり子と笠置シヅ子の関係は?
  • 淡谷のり子と笠置シヅ子は仲が良かった?
  • 淡谷のり子のプロフィール
  • 淡谷のり子の経歴は?
  • 笠木シヅ子のプロフィール
  • 笠木シヅ子の経歴は?
目次

淡谷のり子と笠置シヅ子の関係は?

「ブルースの女王」、「ブギの女王」と並び称されるお二人ですが、そう呼ばれ始めた時期は実は大きく異なります。

淡谷のり子さんの「別れのブルース」が大ヒットしたのは1937年(昭和12年)、笠木シヅ子さんの「東京ブギウギ」が発表されたのは1947年(昭和22年)で10年のブランクがあります。

しかもこの10年はただの10年ではありません。

別れのブルースが発表された1937年は日中戦争が勃発した年であり、太平洋戦争が終わったのが1945年。

「別れのブルース」って戦前の曲なんだ⁉

1947年の「東京ブギウギ」は戦後の復興の象徴のように現れた曲でした。

戦前と、戦後。

2人の女王が活躍した時期は 泥沼の戦中を挟み込んでいます。

もちろん、戦後にも淡谷さんの活躍は続きました。最晩年まで全国ツアーを回っておられたことが知られています。

また、笠置さんも戦前から人気を誇る歌手であり、その華やかさから戦中は忌避されて苦労されたそうです。

これも日本人の「自粛」癖かもね

お二人は年齢も7歳離れていました。服部良一氏の歌を多く歌ったという以外にもいくつかの共通項がありますが、反対に大きく違う部分も少なくはなかったようです。

淡谷のり子と笠置シヅ子は仲が良かった?

淡谷のり子さんと笠置シヅ子さんはライバルの関係でした。

しかもお2人の舞台上でのスタイルは、対照的なものでした。

淡谷のり子と笠置シヅ子のパフォーマンスの特徴
淡谷のり子笠置シヅ子
舞台上に静かにたたずみ、
朗々と歌い上げる
ステージ上で激しく踊りながら、
観客を巻き込んで盛り上げる

実際に笠置さんのスタイルを淡谷さんが辛らつに批判するというようなこともあったようです。

ですがお二人の仲は決して悪くはなかったそうで、お互いの家に遊びに行くなどの交流があったそうです。

実はお二人には共に一人で娘を育てるシングルマザーという共通項もあります。

笠置さんの娘さんであるエイ子さんに淡谷さんが「お母さんに感謝しなさい」というようなことを言ったこともあったのだとか。

娘さんに助言できるなんて、家族ぐるみで仲が良かったのかな

同じ激動の時代を、女性として、歌手として、そしてシングルマザーとして生きたお二人の間には、やはり共感できるものがあったのでしょう。

淡谷のり子のプロフィール

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淡谷のり子のプロフィール
  • 本名:淡谷規
  • 生年月日:1907年8月12日
  • 出身:青森県青森市
  • 身長:150㎝
  • 血液型:A型
  • 最終学歴:東洋音楽学校〈現東京音楽大学)声楽科
  • 死没:1999年9月22日(享年92歳)

淡谷さんの歌の魅力は何と言ってもその歌唱力と、表現力です。

東洋音楽学校で苦学の末に身に着けた美声は「10年に一度のソプラノ」と絶賛されました。

歌謡曲を歌うようになってからも、舞台上に自分の位置を決め、朗々と歌い上げるそのスタイルは、まさに「正統派の歌手」そのものです。

淡谷のり子は結婚してた?

淡谷のり子さんはピアニストの和田肇さんと1931年に結婚し、1935年には離婚しています

淡谷さんご自身が後に「結婚を決める際『恋人と歌の先生の2つを手に入れたい』という妙な打算があったのね。全ては歌のためだった。」と語っておられたそうです。

元夫の和田さんは華麗なテクニックで知られたピアニストだったそうで、淡谷さんとの結婚も伴奏を務めたことがきっかけだったとか。

和田さんは1987年に80歳で亡くなっておられます。

淡谷さんとの間にはお子さんはおられませんが、再婚されたようで少なくとも2人の男の子がおられたようです。

淡谷のり子の子供は何人?

淡谷のり子さんのお子さんは娘さんお一人です

淡谷のり子の娘についてわかっている事
  • 生まれたのは1938年
  • 父親は「子供ができたことも知らずに中国で亡くなった」

淡谷さんは娘さんについても、その父親である男性についても、生涯沈黙を守りました。

一時、淡谷さんの娘は歌手の秋元順子さんで、その父親はディック・ミネさんではないかという噂が流れていましたが、これは間違いであったことが確認されたいます。

秋元順子が淡谷のり子とディック・ミネの娘かと噂された発端
  • 秋元順子が淡谷のり子と似ている
  • ディック・ミネは結婚と離婚を繰り返したプレイボーイ
  • 2007年に淡谷のり子とディック・ミネが発表したデュエット曲が話題になった。
nko.akimoto.com

こちらが秋元順子さんですが、目元や口元、全体のゆったりした雰囲気などに確かに淡谷のり子さんと似たところがあるように思います

ちなみに秋元順子さんは1947年生まれですので、1938年生まれの淡谷さんの娘さんとは年齢があいません。

この話は相当人口に膾炙していたようで、ウィキペディアに誤記されていたことがあったそうです。

現在はそのような記述は確認できませんでした。

淡谷のり子の経歴は?

青森の豪商の長女として生まれた淡谷さんは「お嬢様」の生まれです。

しかし実家が破産したために大変な苦労をすることとなりました。

淡谷のり子の経歴
1907年(0歳)青森の豪商の長女として誕生
1910年(3歳)「青森大火」で実家の店舗が焼失
10代の頃父親の放蕩癖も災いして実家が破産
高等女学校を中退
父親に愛想をつかした母と妹と3人で上京
音楽教師を目指して東洋音楽学校ピアノ科に入学
入学後声楽科に転科。オペラ歌手を目指す
1924年学校を一年休学し3月から絵画の裸婦モデルなどで生活費を稼ぐ
画家の田口省吾が学費の捻出などのサポートをかって出る
1926年東洋音楽学校に復学。以後は久保田稲子に師事する
1929年東洋音楽学校声楽科卒業
オール日本新人演奏会で「10年に1人のソプラノ」と絶賛される
以後母校の研究科に籍を置き、クラシック歌手として活動するが、家計のために歌謡曲も歌う。
1930年「久慈浜音頭」発売
東京浅草の電気館の映画館専属の歌手となる。
低俗な歌を歌ったとして、母校の卒業名簿から抹消される(のちに復籍)
1931年日本コロムビアに移籍
ピアニストの和田肇と結婚
1935年離婚
1937年「別れのブルース」発売
1938年長女を出産
1939年以後第2次大戦中は慰問活動に励む
軍部の命令に従わず、華やかな化粧とドレスで慰問のステージをつとめた
1953年NHK紅白歌合戦初出場。トリをつとめる
オーディション番組やバラエティー番組などで辛口のコメンテイターとなる。
1980年代「物まね王座決定戦」の名物審査員となる
1993年脳梗塞で倒れ、以後メディアへの露出がなくなる
1996年寝たきりとなり療養生活を送る
米寿記念コンサート野最期に「聞かせてよ愛の言葉を」を合唱
これが最後の公の場での歌唱となった
1998年故郷青森県青森市の名誉市民に選ばれ、推戴式に車いす姿で出席
1999年年9月22日に老衰のため死去

もっとも、実家が破産せず、青森の高等女学校を卒業していた場合、その頃の慣例として淡谷さんが早々に嫁いでいた可能性は高いのではないかと思われます。

もしかしたら淡谷さんの実家の破産が、日本に「ブルースの女王」を誕生させたのかもしれません。

信念と努力の人だよね

笠木シヅ子のプロフィール

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笠置シヅ子のプロフィール
  • 生年月日:1914年8月25日
  • 本名:亀井静子
  • 出身地:香川県大川郡相生村
  • 死没:1985年3月30日(享年70歳)

笠置さんの特徴は何と言ってもその華やかなパフォーマンス力です。

迫力のある歌声と、大きな身振りで華やかなダンス。そして観客を積極的に巻き込んでゆく舞台パフォーマンス。

明るく、積極的で伸びやかなその歌声は、まさに「戦後」の暗闇から抜け出そうとする世情の明るさに相応しいものでした。

笠木シヅ子は結婚してた?

笠置シヅ子さんは生涯独身でした。

恋も生涯にただ一度しか確認されていません。

笠置さんの「運命の恋人」は吉本興業の御曹司吉本穎右。

笠置さんから9歳年下だった吉本さんは、出会った頃はまだ大学生でした。

吉本穎右のプロフィール
  • 生年月日:1923年10月26日
  • 出身地:大阪
  • 両親:吉本泰三、せい夫妻(吉本興業創業者)
  • 学歴:早稲田大学フランス文学科中退
  • 死没:1947年5月19日(享年25歳)
  • 備考①:次男だが、長兄が溶接しているため跡取り息子として生まれ、家督を相続する
  • 備考②:母せいは笠置シヅ子が妊娠するまで結婚に反対していた

2人は吉本さんの母せいさんに反対されながらも、短い同居生活などを挟んで交際を続け、1946年10月ごろには笠置さんの妊娠が発覚します。

妊娠発覚後はせいさんの態度も和らいだものの、笠置さんの出産直前の1947年5月19日に穎右さんが結核のために死去。

笠置さんは絶望の中6月1日に出産しました。

笠木シヅ子の子供は何人

笠置さんのお子さんは穎右の忘れ形見であるエイ子さんお一人です。

亀井エイ子についてわかっていること
  • 生年月日:1947年6月19日
  • 名前は父穎右の遺言によってつけられた
  • 吉本家からはエイ子の出生時に3万円(現在の300万円程度か)の援助があった
  • 吉本せいはエイ子を引き取りたいと打診したが、笠置シヅ子が断った。
  • 母シヅ子は自宅の豪邸の庭で娘のお誕生会をするなど、娘を何不自由なく育てた

エイ子さんについては生年月日と名前以外、ほとんど公表されていません。

笠置シヅ子の経歴は?

大阪で育った笠置シヅ子さんは庶民派です。

X(旧Twitter)
笠置静子の経歴
1914年谷口鳴尾の長女として生まれる
亀井ウメが引き取り、実施と共に大阪に連れてゆく
1927年宝塚音楽学校受験、不合格
松竹歌劇部聖都養成所入所
1934年日本コロムビアから「恋のステップ」でレコードデビュー
(「恋のステップ」は松竹歌劇「カイエ・ダム―ル」の主題歌)
1938年「松竹楽劇団」結成に伴って上京
服部良一と出会う
松竹楽劇団の大スターとなる
東宝への引き抜き話がでる
1941年日米開戦
「敵性音楽」を歌う事への風当たりが強くなる
1943年吉本穎右と出会う
1945年東京大空襲により、三軒茶屋の自宅が焼失
吉本興業から斡旋された貸家で吉本穎右と同居する
終戦
11月には日本劇場の最初のショーに出演
1946年10月に妊娠発覚
1957年歌手を廃業
以後は女優としてのみ活動
1967年「家族そろって歌合戦」で審査員を務めるようになる
1971年かねよ石鹸の台所クレンザー「カネヨン」のCMおばさんとして親しまれる
1985年3月30日卵巣がんのため死去(享年70歳}

大阪仕込みのサービス精神と、逆境にもめげない前向きさは、まさに庶民の強さを感じさせます。

「運命の恋人」を失ってもしおれることなく、遺された子供のためにと発奮する根性は戦後の力強さそのものです。

驚いたことに笠置さんを「ブギの女王」と言わしめた「東京ブギウギ」は、このどん底だったろう時期にレコーディングされているのです。

しかも絶頂で歌手を引退し、以後は女優に専念するという潔さ。

彼女の生き方は不思議なくらい明るく、小気味よく、力にあふれて感じられます。

根性と思い切りが素晴らしい!!

まとめ

  • 淡谷のり子と笠置シヅ子は同じ服部良一の曲を歌っていた
  • ステージ上のパフォーマンスは対照的
  • どちらも1女を生んだシングルマザー
  • どちらの娘もほとんど情報がない
  • 2人の関係はお互いの家を行き来するほど良好だった
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