八代亜紀の若い頃の画像20選!身体のラインが綺麗で超美人!

歌手の八代亜紀さんが2023年12月30日に73歳で亡くなられましたことに、謹んで哀悼の意を捧げます。

晩年もふっくらした頬に切れ長の目、愛嬌のあるお茶目な表情と、とてもおきれいな方でしたが、若い頃はシャープな美貌とダイナマイトボディーの、まさに圧巻の美女でした。

そんな八代さんの若い頃の写真を、身体のラインの綺麗さも重視しつつ集めてみました。

この記事でわかること
  • 【若い頃の身体】八代亜紀の画像20選
  • 八代亜紀のプロフィールや経歴
目次

【若い頃の身体】八代亜紀の画像20選!

八代亜紀のバスガイド時代写真

これは中学校卒業直後、八代さんが故郷でバスガイドをしていたころとされる写真です。

当時の15歳とは思えないスタイルの良さだとおもいませんか。

八代さんは結局数ヶ月でバスガイドを辞めて、クラブ歌手になることを目指して上京します。

八代さんにガイドをしてもらえた方は、かなりレアでラッキーな方と言えそうです。

こんなかわいいガイドさんに当たったら嬉しいよね

八代亜紀の身体のスタイルが分かる画像

yafuoku

こちらは1976年6月発行の雑誌プレイボーイの表紙を飾った八代亜紀さんです。

ノースリーブの似合う綺麗な方のラインとすらりとした腕がよくわかります。

X(旧Twitter)

こちらはやはりすらりとした足のラインがよくわかるのではないでしょうか。

実は八代さんのミニスカート写真はあまり見つからないので、貴重な一枚です。

こちらは肌の露出は少ないですが、ニット越しにきれいな身体のラインが良く見て取れます。

スタイルがいいと、こういう露出の少ないフォーマルなワンピースもきれいに着られるんですね。

八代さんは舞台では演歌歌手という仕事上、着物やドレスが多いですが、スタイルと姿勢の良さが際立って、本当に素敵です。

スタイルって姿勢も含むなあ

こちらは当時「ラッパズボン」と呼ばれたスタイル。

こちらはシンプルなノースリーブのニットですね。

この髪型で頭が大きく見えないのもすごい!!

髪飾りをサイドにとめたお嬢さんぽいスタイルは、八代さんとしては珍しいです。

X(旧Twitter)

ニットのカタツムリの立体感で、胸の大きさがよくわかります。

八代さんは実はかなり胸が大きく、スリーサイズは98-65-92だったとか。

スレンダーな印象ですが、かなりのダイナマイトボディーですよね。

ここから下の三枚はその胸元が目立つ写真です

「あめあめふれふれ」のフレーズがあまりに有名な「雨の慕情」がリリースされたのは1980年の事でした。

八代さんが29歳ごろの曲となります。

個人的にはむしろこの頃からの八代さんが、美しさや色っぽさを極めているように思います。

指先に裾を止めた印象的なドレスは、残念ながら全身像を見つけられませんでした。

X(旧Twitter)

こちらの写真でも感じはわかりますでしょうか。

八代亜紀の映画「トラック野郎」の画像

八代亜紀さんは1970年代には「トラック野郎の女神」としてトラック運転手から絶大な支持を受けていました。

当時はデコトラ全盛期で、ついには「八代観音」という八代さんの顔を模した観音菩薩の描かれたトラックが出現しました。

X(旧Twitter)
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確かに八代さんとよく似た観音菩薩が描かれていることがわかります。

この荷台に荷物を積むのは大変そう

これをきっかけとして1977年には当時の大ヒット映画シリーズである「トラック野郎」シリーズの第5作「度胸一番星」に女ダンプ運転手の「紅弁天」役で出演しました。

X(旧Twitter)
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トラック野郎スタイルが格好良くも色っぽいですね。

八代さんは撮影中に実際に運転をしたこともあったようです。

八代亜紀の着物画像

体形が目立たないように言われることも多い着物ですが、きりっと着付けるにはやはりスタイルの良さが重要です。

suruga-ya.jp

八代さんの着物姿は、この点において文句の付け所がありません。

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色っぽさ、いなせさ、決して下品にはならない伝法なポーズ。

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まさに粋な着物姿のお手本のようです

こんな風に着物が着たい!!

八代亜紀のプロフィールや経歴

八代亜紀さんの芸名の名字である「八代」は出身地の地名からきているようです。

八代亜紀のプロフィール
  • 本名:橋本明代
  • 生年月日:1950年8月29日(享年73歳)
  • 出身地:熊本県八代郡金剛村〈現八代市)
  • 所属:ミリオン企画


 八代さんは中学校を卒業後、地元のバス会社に就職しましたが、わずか数ヶ月で父親の反対を押し切って上京しました。

お父さんは反対していたんだ…

その後音楽学院に通って基礎を身に着け、3年後には銀座のクラブ歌手となります。

1971年には「愛は死んでも」で芸能界デューを果たし、読売テレビのオーディション番組「全日本火曜選手権」で10週連続勝ち抜いてグランドチャンピオンとなったことで注目を集めました。

1979年には「舟歌」1980年には「雨の慕情」を発表し、やがて「演歌の女王」と称されるようになりました。

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まとめ

  • 八代亜紀は若い頃、スタイル抜群だった
  • 八代亜紀は数ヶ月だけバスガイドをしていた
  • 八代亜紀はかつて「トラック野郎の女神」だった
  • 八代亜紀は八代市出身
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